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登志子のキッチン

「食べることは生きること」をモットーに美味しいごはんでみんなを幸せにしたいです!


by 登志子

父とみかん

「父の日」です。
みなさまのブログを拝見して・・・わたしも書いてみようかなって・・・・


わたしの父は、51歳で亡くなりました。

関西の大学を卒業してこちらへ戻ってきて
就職して1年目の23歳の秋でした。
本当は、そのまま関西で就職したかったのですが
父が猛反対したのでしかたなく帰ってきたという感じだったんです。

春から、従姉妹と叔母が相次いで亡くなり
そのお葬式を取り仕切ったのはわたしの父でした。
そして、父は入院しました。
わたしは、「すぐに良くなって退院する」と思い込んでいました。
後でわかったのですけど
あと半年ぐらいという状況だったそうです。(母だけが知っていました)

その頃、最前列が取れて楽しみにしていたデイブ・メイスンのライブがあって(古いなぁ~~~)
ところが、母は「ライブへ行ってはいけない」と言ったのです。
わたしは,訳がわからず大反発しました。
でも、母の反対でチケットがパァになってわたしは大不機嫌でした。
今にして思えば
父が急変したときのことを母は心配していたのでしょうね。

毎週父のお見舞いへは行っていました。
父は、不思議なものを欲しがりました。
漢方薬屋さんの「まむしの粉」とか、富山の漢方薬「六神丸」とか・・・
当時はネットもないし、あれこれ捜して手に入れました。
そんな父が「みかん食べたいなぁ」と言ったのです。
9月のはじめでした。
30数年前、9月にみかんはなかったんです。
もちろん捜しました。
果物屋さんへ行ってもなかったし、駅の売店の冷凍みかんでさえありませんでした。
それで、わたしは「お父さん、冬になったら食べればいいじゃない。」と言ったのです。

9月23日、職場に母から電話がかかってきました。
「すぐに病院へ来なさい」
わたしは仕事もあったので、「後で行くから」と答えたのですが
母はすごい剣幕で「今すぐタクシーで来なさい」と言ったのです。
(おりしも、その日はわたしの自動車免許の交付日で、仕事が終わったら免許を取りに行く予定でした)

病室へ入ったら、父が寝ていました。
すごく不自然でした。
あんなにたくさんあった心電図モニターや点滴など全くなかったんです。
それを見て,瞬間に父が死んだことを悟りました。
青天の霹靂でした!

その後のことは、覚えているようないないような怒濤の日々でした。




それ以来、わたしはみかんが食べられなくなりました。
みかんは「禁忌」になったんです。 わたしには、みかんを食べる資格などない!
わたしは30数年間、みかんを食べたことがありません。

数年前、まだ母が元気だった頃に
初めてこの話をしました。
母は「何を馬鹿なことを言ってるの?お父さんはそんなこと気にしてない」と申しました。
そうはいっても
あの時に、本気でみかんを捜さなかったわたしのことは忘れることなどできません。



そして3年前のやはり9月に,母が倒れました。
半身が不随になり,うつろな人になってしまいました。
今は施設で暮らしています。

父とみかん_d0377645_16193456.jpg
昨日、母のところへ温室栽培のみかんを買って持って行きました。

皮をむいて,母に「どうぞ」と差し出したのですが
母は左手で「いらない」という仕草をしました。

言葉が出なくなってしまった母と母に拒絶されたみかん・・・

そのみかんを・・・・わたしは食べました。
30数年ぶりのみかんでした。
みかんって、こういうんだったね。
甘くて・・・つらい味でした。



雨の中、父が好きだった「しゃら(ナツツバキ)」が咲きました。
父とみかん_d0377645_16194258.jpg
平家物語の冒頭の「沙羅双樹の花の色」・・・・の「しゃら」です。
朝咲いて,夕方に散ってしまう「はかないもの」のたとえです。

そういう「はかなさ」と大切さを何もわかっていなかった23歳のわたし。
わたしは、父の年を越えて…………今も生かされています。



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by t_hcmoto | 2019-06-17 09:00 | あれこれ